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ら 来援を 見届け金七郎 帰農する
「設楽原古戦場かるた」のくじの旅。お題に「ら」をいただきました。
手元にある『かるたでつづる設楽原古戦場』という冊子では、「ら」は「来援を せかじとつげし 鈴木金七」となっています。平成29年に改訂されているようです。
この看板の場所を今回初めて訪れました。東郷中から矢部へ抜ける道の左手に「川上公会堂」があります。その公会堂の向かいを山手に150メートルほど行くと、富永川上の禅海寺があり、その門前に看板はひっそりと建っていました。川上は金七郎の生まれた地であったようです。
川上公会堂には、金七郎と強右衛門が、長篠城を抜け出し岡崎の家康に援軍を求めにひた走ったルートが書かれています。その際に川上の生家に立ち寄ったとか。
それにしてもここ新城から岡崎まで、山道を50キロ(!!)どれぐらいの時間で走り切ったのでしょうか?そして現代の私たちはどれぐらいかかるのでしょうか?!金七郎が走ったルートに挑戦してみたくなったのはわたしだけでしょうか(笑)
門前から山手の方には、新東名の設楽原パーキングエリアが望めます。その右手のほうに信長が本陣をおいたのでした。その着陣を見届けて金七郎はどんな気持ちだったのでしょうか?援軍を呼びに行った二人の武士。強右衛門は磔になり刑死し、金七郎は帰農した。設楽原で戦った一人一人の人生やそのドラマに思いを馳せました。