学校

東郷の魅力的な人 りゅうチャクマさん その2

写真をみるりゅうさん

富沢にお住まいのりゅうチャクマさんのインタビューのその2です。
その1はこちら
りゅうさんは なみだの分かちあいアジア (Sharing the Tears of Asia=STA) と名付けられたアジアの人権活動をしています。フェアトレードやスタディツアーを主催しています。今回は活動を始めるインドでのきっかけ、活動内容をご紹介します。

アジアに目をむける

りゅうさん 1980年、寺にいた頃、インドにブッダの仏跡巡礼の旅に行った。でも気になったのは大地で生きてる最下層の人。不可触民ていう人がいることを恥ずかしながら初めて知った。カースト制度とはインドのヒンズー教徒における産まれながらの身分制度。不可触民はカーストに入れてもらえない。国民の20%を占め、インド経済の底辺を支えている。リザーブ制度というシステムにのってほんの一握り、うまく教育制度にのっかり上がれる人もいる。けれどほんの少ししかいなくて、まず教育の機会がない。

ドクター アンベドカルとマハトマ ガンジー

りゅうさん 不可触民出身のドクター アンベドカルはインド独立時、法務大臣としてインド憲法の草案を作った。そしてカースト制度を廃止すると憲法に謳ったんです。ところがマハトマ ガンジーはカースト制度は残し不可触民制度は廃止を主張。カースト制度があるから不可触民があるのに、ガンジーは不可触民をカースト制度にいれずにハリジャン(神の子)と言い換え、美しい言葉で問題に蓋をしてしまった。彼は聖者と言われているけど、不可触民からしたら敵なんです。

インドで活躍する日本人のお坊さんに会いに行く

りゅうさん 日本に帰国して山際素夫さんの「不可触民」を読み、本に登場するインドで活躍する佐々井秀嶺というお坊さんに会えるか、山際さんに手紙を書いたんです。そしたら佐々井さんから12月8日に大きなイベントがあるのでその日に来いと、返事をもらった。12月8日はブッダの悟りの日でインドのナグプールで不可触民の仏教徒のデモがあると言うのです。カースト制度のあるヒンズー教徒から仏教徒に改宗した人々のデモ行進で1万人くらい集まったなかで彼は尊敬されてました。それで不可触民と関わるようになりました。

なみだの分かちあいアジア の活動 Sharing the Tears of ASIA=STA

案内板

インド 不可触民のミアビハ村の学校設立

りゅうさん インド ビハール州にブッダガヤというお釈迦様の聖地がある。ブッダがそこで悟りを開いたんです。世界から仏教徒が集まる。各国がお寺を開いていて、ブータン寺、タイ寺、日本寺等がある。そのブッダガヤの中の小さなミアビハ村の村人全員がヒンズー教徒からカースト制度のない仏教徒へ改宗した。だから私たちの富沢の家を活動拠点としてミアビハ村って名前にしたの。

行ってみたら、仏教徒に改宗したって言うけど子供は豚と汚い水の中で遊んでいるし、意識はなにも変わってないんじゃないかと思ってね。結局は教育なんじゃないかって思って聞いてみたら2キロ先に学校はあると。でも学校へ行ったらうちの仕事ができない。貧しい国では子供は歩けるようになれば労働力なのです。ちょっと大きくなったらみんな大塔で乞食やっている。だったら私が村の中に学校を作ったらといったら、即やりたいとなった。タイ寺が支援した小さなお寺の集会場が空いていたから、そこを学校にした。必要以上のお金を持ち込まない、物はノートとか鉛筆とかは持ち込まないと決めて1989年にスタートした。オープニングセレモニーはダライラマも興味を持って支援してくれた。はじめは120人の生徒。有名なお坊さんになった子もいて。村の中からお坊さんが生まれたっていうのは名誉なことなんです。ここだけは年間4万ルピー、私の組織STAで払ってました。フェアトレードの売り上げや、お金がない時は貯金を下ろして。

自称村長の不正発覚

りゅうさん 僕が失敗したと思ったのは、お金を持ち込んだこと。自称村長が学校を私物化していたのです。だから支援って難しいんですよ。基本的には自分たちでお金を集めてその範囲でやってかないと。私の作った学校を見て、ブッダガヤでは学校を作れば支援が集まるという頭になって、雨後の竹の子のようにあちこちに学校ができた。人口が多いから困ることはないんだけど。村長は娘と息子をお坊さんにした。それで誰も口を出せない。娘は台湾にいって尼僧になり、帰ってきて中国系の尼僧さんたちに呼びかけ、台湾企業からお金を集めて今は立派な学校になった。2019年、私が訪れたら、今学校を経営している尼僧さんはわたしのことを知らされていなかった。写真を見せたら、あなたが作ったんですかって。

りゅうさん いい思い出もあります。スタディツアーに行ったとき、雨期明けを祝うお祭りを前倒しでやってくれた。あの時は楽しかったとみんな懐かしがってくれます。

雨期明けのお祭り
雨期明けのお祭り 日本からのスタディツアーを歓迎してくれた。

インド カルカッタ

バングラディシュから逃れてきた少数民族の学校 里親制度の申込窓口

授業料と生活費のサポートとして一人の生徒につき年間15万円を支援。個人でもグループでの支援も可能 随時受付中。

バングラデシュのチッタゴン地域

りゅうさん バングラデシュはベンガル人の国という意味です。イギリス統治時代、特別措置法でベンガル人以外の仏教徒の先住民が住む、東部丘陵地帯のチッタゴン地域は独特の文化があり、ベンガル人等他民族は入ってはいけなかった。インド、東パキスタンの独立でイギリスの統治が終わり措置法が失効した。1960年代、アメリカの支援でカプタイダムができることになって、ベンガル人のイスラム教徒が強制的に入植を始めた。パレスチナと一緒ですよ。入植とは住んでいる人を追い出す、住居の焼き討ち、寺院の破壊、虐殺、レイプ、あらゆる暴力で20万人が殺された。このニュースは日本にほとんど伝わって いない。チッタゴンから逃れインドで亡命生活を送るビマールさんというお坊さんを日本に呼んで、講演活動をやったけど、伝わらなかった。

りゅうチャクマになる

チッタゴン地域には外国人は特別なパーミッション(入国許可)がないと入れない。申請してもまず下りない。バングラデシュ軍がコントロールしていて情報統制されているんです。実は1994年に僕、潜入したんですよ。チッタゴン地域の少数民族チャクマ族のお坊さん、バングラデシュ人の神父さんが私をチッタゴンに入れるプロジェクトチームを作ってくれて、私をチャクマ族ということにした。あんた日本人に見えないから大丈夫って。時計とかカメラも持たずに。検問所で聞かれたら笑っとれと。当時チッタゴンは軍隊の駐屯地で軍事要塞の様で危険な処でした。四回チェックポイントを通過して一度も止められなかった。無事に生きて帰ってきたから、ああおれはチャクマなんだ、それでりゅうチャクマとなりました。

学校にかかわることになったのは、チャクマ族のお坊さんのビマールさん、チッタゴンのランカマティで孤児院をやってたんだけど、そこが軍隊に襲撃された。孤児500人がちりじりになってインドのカルカッタへ亡命したんですね。ビマールさんは国連の少数民族年に冒頭演説した人です。

教育が大事

りゅうさん チッタゴン地域の問題が世界に伝わらなかったのは、伝える人材がいなかった、それにインドでは難民は外国人扱いで教育を受けられないので学校を作ることにした。僕ははじめ、それはビマールさんの夢物語だと思った。だけど、フランスの学生ピエールが創ったNGOパルテージの支援で実現させた。特に賢い子だけを集めてっていうのはあるんだけどね。ヒンズー語ではなく英語で教えるから、インド人にも人気がでてステイタスの高い学校になった。今はパルテージが撤退して、NGOから独立しています。

その学校を作るところから関わっています。そして、寄宿舎生活を送る生徒の里親制度の申込窓口をやっています。学生たちは資金援助もありがたいけど、海外の里親と繋がっているということにすっごい喜ぶんですよ。毎年行く時にサポーターの里親からの手紙を託されるのが一番うれしい、学生たちは物のプレゼントだけだとがっかりします。

発展するインド 取り残されるミアビハ村

りゅうさん インドは確かに発展したんですよ、上の方は。ということは物価が上がるんです。下の方は発展についていけない。特に最下層の人々は収入がほとんど上がらない。でもチャイがだいたい1ルピーだったのが今じゃ10ルピー。米の値段も上がりますよね。発展というのは、ミアビハ村にとって逆だね。発展すればするほど、生きにくくなってしまう。

スタディツアー、里親制度の申込

りゅうチャクマさん 08015811980
Facebook チャクマ りゅう 

僧侶として、インドにブッダの仏跡巡礼の旅に行った時に不可触民の人々を目の当たりにする。帰国後、インドで活躍する僧侶、佐々井秀嶺さんに会うためインドを再訪し、関わることに。ふたつの学校に携わってきた。記事その3 ではりゅうさんの組織、STAが行っている現地へ行くスタディツアー、フェアトレード、フォーラムの紹介、共感することの大切さ、活動の原点についてご紹介します。

取材日 2022年4月9日 取材 浅井美夏、関原香緒里
文 関原香緒里

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