学ぼう
大河ドラマ「どうする家康」の反響で ここ長篠・設楽原の古戦場を訪れる人が多くなり嬉しく思います。
設楽原の戦いの古戦場近くに立つ東郷東小学校では総合的な学習の時間に設楽原の戦いを学んでいます。運動会で「合戦と農民」の表現、学習発表会で設楽原の戦いの劇を披露することが伝統になっています。
先日、新聞で「鳥居強右衛門」の紙芝居を知り、東郷東小学校の6年生の教室で読ませてもらいました。3分の2の生徒が大河ドラマをみていると手をあげました。
「鳥居強右衛門」の紙芝居を古戦場がある小学校で読む
紙芝居は長篠城歴史ボランティア隊の制作で11枚。昨年10月から制作を開始し、メンバー2人が文章、新城市内のイラストレーターが作画を手がけ、愛知県立新城有教館高の生徒25人が色塗りを手伝ったそうです。
長篠城歴史ボランティア隊代表の阿部さんは 長篠城での武田軍との攻防のエピソードを聞いて 紙芝居なら子どもたちにわかりやすく伝わるのでは、郷土の英雄をもっと知ってもらいたいと 紙芝居をつくるきっかけを話してくれました。
〇強右衛門紙芝居のあらすじ
若き城主 奥平信昌の長篠城に武田勝頼が攻めてきました。
武田軍1万5千に対して守る奥平勢500。疲労が重なり食料も乏しく籠城も限界に近づいてきました。家康に助けを求めるため、鳥居強右衛門と鈴木金七郎は、城を抜け、豊川を下流まで泳ぎ、雁峰山でのろしをあげました。
岡崎城で信長と家康に状況を報告し、援軍が来ることを仲間に伝えるため、すぐさま長篠城へ向かいます。雁峰山で再びのろしを上げ長篠城に戻りますが、武田軍の合言葉を言えず、足首にひもをつけていないと武田軍につかまってしまいます。
勝頼に「助けは来ないと伝えろ、そうしたらほうびをあげよう」と言われましたが、城の前に連れてこられた強右衛門は「助けが来るぞ、あともう少し頑張ってくれ」と叫んだので、武田の兵たちは川の反対側で磔にし、殺してしまいました。
そして5月21日の長篠・設楽原の決戦へと向かっていきます。
〇小学生の感想
鳥居強右衛門の名前は知っていたが どんな人か詳しくは知りませんでした。学習発表会でやるのでよくわかってよかったです。
長篠・設楽原の戦いについて
〇登場する武将は思っている以上に若いです。
奥平信昌 20歳 鳥居強右衛門36歳 武田勝頼29歳 徳川家康32歳 織田信長 41歳
〇意外と短期間の戦いでした。
天正3年 5月 1日 | 武田勝頼 長篠城を取り囲む |
5月14日深夜 | 鳥居強右衛門 長篠城を抜ける |
5月15日 | 朝 雁峰山で強右衛門、脱出成功ののろしを上げる 岡崎城で城の危急を訴え、引き返し、武田軍に捕らえられる |
5月16日 | 大声で「助けが来るぞ」叫び、磔死す 信長と家康 岡崎を出発 |
5月19日 | 勝頼 本陣医王寺で設楽原に向かうべきか軍議 |
5月20日 | 夜半、酒井忠次 鳶ケ巣山に向かう |
5月21日 | 早朝 設楽原の決戦 昼過ぎ 武田軍は総崩れで敗走 |
鳥居強右衛門の史跡巡り
施設・場所名 | 所在地 | 特徴 |
長篠城址 史跡保存館 | 新城市長篠字市場22番地1 | 草原のような城址の中を飯田線が走る |
長篠城を脱出した不浄口 | 新城市乗本の牛渕橋より見える | 橋は道幅が狭いので通行する車に注意 |
強右衛門が豊川 から上陸した場所 | 川路の巴神社から南に、豊川沿いに徒歩10分下る | 大宮川(連吾川)が豊川に 合流地点 |
磔にされた場所 (磔死之跡碑) | 長篠城の対岸 新東名の新城インターから車で5分 | 杉の木が伐採してあり長篠城址が良く見える |
墓所 新昌寺 | 新城市有海字稲場2番地 明治35年『鳥居閣』建立 | 「鳥居閣祭」が行われ、鳥居強右衛門が供養されている |
墓所 甘泉寺 | 新城市作手鴨ケ谷字門前23番地 新城市街から車で30分 | 夫婦並んでの墓。杉の大木の参道をのぼる |
強右衛門の紙芝居の問い合わせ
長篠城歴史ボランティア隊 阿部和子さん 090ー4267ー3073
長篠城址史跡保存館 https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/nagashinojyoshi/yokoso.html
甘泉寺 https://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/tera/kansenji/index.html
ライター 岡田 文子