ゑ 絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺

ゑ 絵図ひらき 軍議かさねし 極楽寺

 5月17日野田に野営した織田軍は、 翌日設楽原に軍を進めて、 本陣を上平井の極楽寺山に定めた。 その山すそに極楽寺という寺があったといわれ、 その寺のものと思われる鎌倉期の布目瓦が出土して、現在東郷中学校に保存されている。 

 天下に誇る武田の騎馬隊を破るため、 連合軍は地形を考えて、 設楽原東部を流れる連吾川を最前戦にして、右翼徳川軍・左翼織田車と南北2.5km東西2kmにわたって布陣し、 馬防ぎのための堀と柵の構築に全力を挙げて取りかかった。 なお信長は、 最新鋭の鉄砲3千挺の偽装のためもあって、岐阜から柵本と縄を持たせて来ている。

 かくて、連合軍の待ちの態勢ができ上がったところへ、勝頼は豊川を渡って設楽原へ軍を進めて来た。まさに思うつぼである。そこで信長は、20日の朝から諸将を極楽寺へ集め、両軍配備の絵図を中心にして軍議を練り重ね、明日の決戦に備えた。

 酒井忠次のえびす舞いや鳶ヶ巣奇襲の進言もここで行なわれ、武田軍を設楽原へ引き出すために、忍びの者を使ったりして、いろいろ策動するあわただしい動きもあって、戦機は徐々に盛り上がっていった。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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