も モッセモッセ ヤーレモッセの 火踊り

も モッセモッセ ヤーレモッセの 火踊り

 設楽原の戦いが終って1か月程たったころ、信玄塚の大松・小松から多くの蜂が出て、街道をゆく人馬を刺したため、通行が困難になったことがある。これは、武田方の戦没者を弔うのを怠ったためだというので、ある日のこと、昼間は大施餓鬼を行ない、夜に入っては松明をたいて供養に努めたところ、以来蜂の大群は姿を見せなくなったという。これが、今も月遅れ盆の8月15日に行なわれる「火踊り(ひおんどり)」の始まりだと伝えられている。火踊りは、手作りの大きな松明を振って行なう勇壮な火祭りで、竹広区と八束穂区上信玄組の人々によって受け継がれて4百年余も続いている、新城地方きっての奇祭である。

 この火踊りに使う松明の材料は川辺に生育している葦(よし)と、山野に多く自生している羊歯(しだ)である。葦は刈り取って天日に乾燥させ、それをすだれのように編んだもので丸い筒を作り、その中に、やはり刈り取って乾燥させた羊歯を固くつめ込む。それを俵をしめるように縄で数か所巻いて仕上げる。でき上がったものは高さ2m余その先端には、葦の葉の数十枚がわざと残されている。周りの太さは、太いもので2m程、細いものでも1m近くはあろう。また一方では、藁で作った注連縄に、半紙や色紙で作った四手(しで)を用意する。それを松明に添えて軒先に立て、8月15日の夜を待つというわけである。

 さて、当日の夕方になると、踊り手一一若者や子どもたち、ただし男に限る。は、松明の火元を勤める旧庄屋の峰田金守氏宅へ、はっぴ・はちまき・さるまた姿で集まって来る。やがて、連吾川に入って身を清めた後、古式に従ってもみ火で得た浄火を、3本の小さな松明に点じて種火を作る。それを手にして火元の家を出発し、山県昌景の墓所を経て火踊り坂を登る。坂の上にずらりと並んでいる松明に、3本の種火を使って次々に点火してゆく。間もなく、70本程の松明の火の行列が、信玄塚目ざして行進を始める。行列の先導は、火元の峰田氏、竹広区の総代、上信玄組の代表ときめられており、それに鉦・太鼓・笛のはやし方が続く。「道行きばやし」のゆるやかな調子で、小松から大松へかけて二周すると、テンポの速い「岡崎ばやし」に変わってゆく。 こうして三周めを回り終えると、踊り手たちは中央の広場へ集まる。

 ころあいを見て、鉦や太鼓が突如としてはげしい乱調子に変わる。「チャンチャコチャン、ドンドコドン」踊り手たちは、肩にかついでいた松明を小わきにかかえ直して、8の字を横に書くように振り回す。「ヤーレモッセ、モッセモセ、ヤーレモッセ ナンマイダー、チャンチャコマーツヲトーポイテ」と大声で唱えながら、燃えさかる松明を振って踊り狂う姿は、まさに、設楽原合戦の修羅場もかくやと思う程である。

 歌い文旬の「ナンマイダ」は「南阿弥陀仏」であり、「チャンチャコマーツ」は、鉦の音の「チャンチャン」に松明を加えたもので、「モッセ」は、南無阿弥陀仏を申せ」と松明を「燃せ」とをかけた言葉である。

 また、信玄塚の広場のかたわらに空道和尚作の閻魔大王の石像があるが、当日はその両わきに、武田菱の紋所をえがいた提灯が置かれて火がともる。火踊りに先立って参拝する人々には、施餓鬼(せがき)の護符とあずきの入らない強飯(こわめし)が配られる。これを食べると、夏病みをしないといわれている。

 いわば敵軍であった武田方の霊を弔い、戦時中といえどもその火を絶やすことなく、4百年余り続けているすがたは、三河人ならではの律義さといえよう。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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