京 京めざす 武田の雄図 今悲し

京 京めざす 武田の雄図 今悲し

 設楽原の戦いは、武田軍の敗北に終った。信玄以来の名将山県昌景・内藤昌豊・馬場信房らは討死し、勇将真田信綱・昌輝・土屋昌次らも倒れ、1万余の死者とおびただしい負傷者を出した。敗戦の後、勝頼は武田軍再興を夢見て努力したのであるが、設楽原で負った痛手はいやしようもなく、ついに7年後の天正10年3月、天目山の戦いに敗れて自刃したのである。かくて、新羅三郎義光以来数百年続いた武田家の命運も尽き、信玄以来2代にわたって抱き続けて来た上洛の雄図も、はかなく消え去ってしまった。思えば設楽原の戦いは、武田家没落の重大なきっかけとなったわけである。

 そもそも武田家は、平安時代の昔、源氏の棟梁八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に発し、代々甲斐源氏の名門として栄えていた。ことに四代目の太郎信義は源頼朝の挙兵に協力して大功をたてたが、その勢威の強大になるのを頼朝が恐れたくらいである。そして、27代目に当たるのが入道信玄である。彼は、父信虎を隠居させて甲斐の国主となり、戦国群雄のひとりとして、思うさま力を四方に伸ばし、上洛と天下統一の野望を燃やしていったのである。

  まず、北進の軍をおこして信州の沃野を手に入れ、西上への足がかりとした。諏訪頼重・高遠頼継・村上義清らを撃ち破ったのがそれである。さらに、村上義清との戦いが発展して、上杉謙信と川中島で度々対決し、戦国ロマンの花とうたわれるような戦ぶりを示した。次に、小田原の北条氏康や駿河の今川義元との間で外交交渉を重ね、南進の機会をうかがっていた。そうした多忙な兵馬の明け暮れの中にあっても、信玄は内政にも力を入れて、産業・土木・税務等に多くの業績をあげ、国力の充実を図っていった。やがて元亀3年( 1572 ) 2万の大軍を従えて甲斐を出発し、風林火山の旗をなびかせながら南進していった。目指すは、新興勢力織田信長と、それと同盟関係にある徳川家康の打倒である。三方ヶ原に迎え撃つ家康を一撃の下に退けて、その軍を浜松城下に迫らせた。しかし、信長を背後から撃つと約束した越前の朝倉義景が、雪のため動きが取れなかったため、ついにあきらめて軍を返すことにした。野田城攻略は、武田軍が信州への道すがら行なった働きであるが、図らずも信玄最後の戦となってしまったのである。病にかかった彼は、帰国の途中あえなく果ててしまった。時に元亀4年(1573)、信玄53歳。

 信玄の死後、その遺言のせいもあったのか、子の勝頼はしばらく鳴りをひそめていたが、翌天正2年、軍を従えて美濃の岩村城・明智城や三河の足助城を攻略し、ついには遠州に出て高天神城を取り囲んだ。この城は、父信玄も落とし得なかった程の堅城である。彼は、これを外交交渉によって降服させてしまった。城の救援に駈けつけようとした信長も間に合わず、途中から引き返した程のあざやかな手並みである。父との比較でとかくのことをいわれ、肩身の狭い思いをしていた彼は、ここで強大な自信を持つに至った。まさに、その得意や思うべしである。ところが、その自信過剰が設楽原での敗戦を招く原因となるわけで、地下の信玄も、おそらくは顔をそむける思いがしたことであろう。信玄はつねづね、「戦勝ハ五分ヲモッテ上トナシ、七分ヲ中トナシ、十分ヲモッテ下トナス」といい、その理由として、「五分ハ励ヲ生ジ、七分ハ怠ヲ生ジ、十分ハ驕ヲ生ズ」といっていた。わが子勝頼が、十分の勝ちにおごったのも皮肉なことである。

 設楽原の戦いの後、武田軍の勢威は急速に傾いていった。実力の衰えもはっきりしていたと思うが、自他に与えた精神的な影響もまた大きかったに違いない。常勝武田軍と恐れていた近隣諸国を勇気つけ、逆に自らの士気は衰えてったであろう。それをカバーするためか、 勝頼は外交交渉をしきりに試みて、北条との同盟を強化したり遠く本原頁寺や毛利と結んだりしたが、有効な決め手とはならなかった。一方家康は信長の協力を得て、失った城を着々と取り返すのみか、新たにいくつかの城を攻略していった。やがて織田・徳川連合軍は、堅城高天神城を落とし入れて、武田軍に決定的な打撃を与えるのであった。「高天神ニテ干殺シニサセ、後ロ巻キツカマツラズ、天下ニソノ面目ヲ失ヒ候」と書かれたように、勝頼は名だたる城を見殺しにしてしまったのである。かくて、信玄以来の強固な家臣団の結束も乱れて浮き足立ち、主君に背いて敵方に走った者も少なくなかった。

 このようにして天正10年3月11日、天目山に運命の日を迎えるのであった。時に勝頼、年37歳。この時、北条氏より後添えとして入った勝頼の妻女が、「小田原へ帰って生き長らえよ」とのすすめを振り切って、最後まで勝頼のそばを離れず、ついには夫に先立って自刃し、あたら19歳の花を散らせて人々の涙を誘った。さらに遠く中国の高松城攻めの戦陣にいた羽柴秀吉は、勝頼の死を伝え聞いて、「惜しい人を死なせたものよ。私がそちらの陣中にいたら、なんとか命ごいをして甲信二州を与え、関東への先陣とさせたものを」と、残念がっていったという。また、後日家康は勝頼最期の地に景徳院という寺を建てて、その霊をねんごろに弔っている。

 つわものどもが夢のあと。信玄・勝頼二代にわたる武田家の興亡は、さながら、激しく燃え、そしてあわただしく移り変わる戦国絵巻の縮図のようなものである。さらに勝頼の死のわずか3か月後に、信長が本能寺に無念の最期を遂げるのを考えると、人間の運命の悲哀を思わずにはいられない。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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