い 家康が 本陣ここに 八剱山

い 家康が 本陣ここに 八剱山

 設楽原にいち早く到着した徳川家康は、ます八劔の神前にぬかづき、「南無八劔夫明神、家康が乾坤一擲の戦ぶり、とくとご照覧あれ」と、心の中でとなえた。やがて神殿の後ろの八劔山(弾正山)に上り、ここを自らの本陣と定めて設楽原一帯を眺め渡す家康の胸中には、みなぎるばかりの戦意が固い決意とともに、ふつふつとわき上がってきた。

 思えば、武田軍との交戦は、このところ敗北続きであった。3年前は、信玄のため三方ヶ原で大敗し、勢いに乗った甲州軍は、浜松城近くまで攻め寄せて来た。そして昨年は、その子勝頼のため高天神城を落とされ、期待していた織田信長の援軍もついに間に合わなかった。しかし、今度は違う。織田・徳川の連合軍合わせて3万8千、この設楽原に展開し、満を持して敵との合戦を待ち構えているのだ。甲州軍を打ち破り、これまでの失点を一挙に取り返すべき絶好の機会である。延々と連なる馬防柵と3千挺の鉄砲をもって、目にもの見せてくれようぞ。

 この八劔山は、かつては古墳の造られた所で、設楽原に張り出した小高い丘の南端にあるため展望が開け、頂上に「千歳松」と呼ばれる枝ぶりのよい見事な松があった。その松は遠くからでも眺められたもので、この山の象徴となっていたらしく、山は別名「高松山」とも呼ばれていた。4百年後の今つくづく眺めても、ここに本陣を定めたことは、家康の地形判断の確かさによるもので、最前線の戦闘指揮所として最もふさわしい所のように思われる。それに、連吾川を隔てた東側の丘陵には、やがて北方より、馬場信房の右翼隊、内藤昌豊の中央隊、山県昌景の左翼隊と並び、中央隊の後ろには勝頼の本陣がひかえるのだ。家康の本陣は、まさに敵の心臓部ともいうべき中央隊及び本陣と相対することになるわけである。

 ところで、眼を北に巡らせば雁峰の山々が連なり、それが西に尽きる所に本宮山がそびえ立つ。そうした山なみからは、ちょうど手の指を広げたように いくつかの丘陵が南に向かって張り出している。そして、丘陵の要所要所に連合軍諸将の陣地が設けられている。八劔山の徳川家康の本陣から西へ進んで、松尾山の徳川信康、天神山の織田信忠、御堂山の織田信雄の各陣地が並び、そして最後に極楽寺山の織田信長の総本陣がひかえている。さらに、眼を南に転ずれば、設楽貞通所領の城が、門前の来迎松城、小川路の川路城、下川路の端城と、およそ5百。ごとの間隔で三つ星のように並ぶ中、家康配下の大久保・本多・榊原・石川・平岩・内藤の諸将が陣をしき、今や馬防柵の構築に大わらわである。

 もともと濃尾・三遠の沃野に育った連合軍武士団にとて、山岳地帯をものともせずに駈け巡る甲州騎馬軍団は、まさに強敵であった。その精強な攻撃力、その迅速な機動力、その強固な団結力、どれをとってみても、なみたいていのことで歯の立つ相手ではない。こうした敵を向こうに回しては、やみくもに突進する攻撃精神だけではだめである。むしろ、敵味方の戦力を読み取る冷静な判断力がより必要なのだ。連合軍には、幸いにしてそれがあった。その現れが、延々と連なる馬防柵と、その内側に鳴りをひそめて待つ3千挺の鉄砲である。まことに、信長の天才的な戦略と、家康の慎重な戦法とが合体してできた、この陣立てではないか。 戦機は、漸く設楽原の野に熟してきた。梅雨明けを思わせる太陽の輝きと、蒸せるような夏草のにおいの中に立った家康は、「わが本陣はここにあり」と、心中ひそかに、まだ見ぬ敵に向かって告げるのであった。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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