学ぼう
設楽原の戦いは、武田軍と織田・徳川の連合軍との戦いであるが、見方によれば、伝統的な戦法と近代的な戦法との戦いだということができよう。騎馬と刀槍とによるこれまでの戦法が、馬防柵と鉄砲とによる新しい戦法に敗れ去ったのである。
信長は、設楽原の戦いのために慎重な用意を整えていた。まず、3千挺の鉄砲を馬防柵のための柵木と繩でたくみにカムフラージュして、はるばる岐阜より運び入れている。次に、設楽原に到着して布陣を終ると、連吾川の西側に堅固な馬防柵を構築している。さらに、自分の方から攻撃を仕かけるのではなくて、敵方を誘い出す「待ちの戦法」に徹している。万全ともいうべき手の打ちようで、かつて桶狭間の戦いで見せた神速果敢ぶりと比べると、まったく別人のような構えであった。
これは、信玄以来の武田軍の精強ぶりを十分考えてのことであるが、一面には、当時の信長の持つ余裕からも来ているように思う。それは、3千挺の鉄砲を入手できる力があったということと、身近な強敵浅井・朝倉の両軍を倒し、長年なやまされていた長島一揆を平定して、 武田軍打倒に全力を投入できる時期にたまたま当っていたのだ。
それにしても信長は、鉄砲の活用について、実に天オ的なひらめきを見せたものである。彼は、鉄砲の持つ特性をよく研究し、その短所を補って長所を生かすことに他の人の思いもよらないようなすぐれたオ能を示している。
ます馬防柵についていうと、三重に構築して、柵のところどころに切れ目を設けて出入り口とし、その出入り口を互い違いになるように作っている。つまり、第一柵の出入り口を通ると第二柵の正面に突き当たり、次の出入り口をさがして横に移動し、やっと第二柵を通っても第三柵の正面に突き当たって、再び出入り口を求めて右往左往しなければならない。これは明らかに、鉄砲を使う者にとってねらいやすく撃ちゃすい状況を作り出しているわけである。次に鉄砲の扱い方であるが、3千挺を三段に分けて三交代に撃つようにしている。つまり、第一段の鉄砲を撃ち終ると射手は後ろへ退き、代わって第二段の射手が前へ出て撃ち、終ると第3段の者と交代する。そして、第三段の者が撃ち終ったころには、先の第一段の者が新しい弾を込め終っている。こうして、次々に交代して撃ち続けてゆくことができるというわけである。いってみれば、後に西洋で発明された機関銃のような連続射撃の方法を、いち早く生み出しているわけである。
武田軍においてもいくらかの鉄砲は持っており、それなりに使い方の研究もされていたと思うが、信長のような独創的な使い方は想像もしなかったに違いない。おそらくは、鉄砲を使うにしても有効なのは最初の第1発で、2発目の用意をするうちには騎馬で蹴散らせて見せる、といった意気込みで立ち向かって来たことと思う。それが予想外の苦戦を強いられ、ついには名だたる部将の数々が、名もない足軽の撃つ鉄砲によって、次々と倒されてゆくのである。まさに、戦いの大きな変革をまざまざと見せつけられた思いがしたことであろう。
こうして設楽原の戦いは、日本の戦史を書き変えてゆくことになるのである。初めに書いたように、伝統的な戦法は近代的な戦法に取って代わられ、足軽鉄砲隊を主にした集団的用兵は一層強化されてゆくとともに、築城においても、山城の時代は終って平城へと移ってゆくのである。この地方においても、野田・長篠・田峰の山城が姿を消して、新城の平城が造られている。このように、設楽原の戦いの以前と以後とをはっきり区別したのは、新しい主役の鉄砲であったのである。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)