は はたぼこと 秀吉陣地の 名を伝う

は はたぼこと 秀吉陣地の 名を伝う

 信長の本陣茶臼山を軸として、一帯に部将がそれぞれ陣をしいた。藤吉郎秀吉は時に39才、壮年有為の指揮官として、ひょうたんの馬印を押し立てて、茶臼山に続く宗国台地に布陣した。

 敵の来襲に備えて待機する彼の胸中には、往時の思い出が次々とよみがえるのであった 藤吉郎として信長に仕えたのが18才。才覚を認められて足軽の組頭になり弥々と結ばれたのが27才。美濃攻略の拠点として、墨股に一夜城を築き上げ、城持ちの武将としてそこを守るようになったのが30才。その2年後には、名門明智光秀とともに京都奉行に任ぜられた。まさに登り坂の20年である。

 やがて秀吉は、馬防柵構築の奉行をつとめ上げると、今度は側面攻撃隊の指揮官として、須長堂座に陣を移した。そして、丹羽長秀・柴田勝家らとともに、突進して来る武田軍の馬場右翼隊、内藤中央隊を横合いから、激しく攻め立てるのであった。なお、秀吉が陣をしいたあたりの宗国を、誰いうとなく「はたぼこ」と呼ぶようになり、4百年後の今もその名を言い伝えている。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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