ち 治水にも つくせし昌胤 ここに死す

ち 治水にも つくせし昌胤 ここに死す

 原家は武田家譜代の重臣で、父の昌俊、子の昌胤と代々陣場奉行をつとめた家柄である。陣場奉行というのは、合戦に先立って、綿密な作戦計画を立て、合戦中は敵味方の動きを正しくとらえて以後の戦略の参考にし、合戦後は戦場の後始末をもつとめるという、たいへんな責任を持つ役目なのである。従って、合戦の相談にはすべて加わるわけで、さしずめ参謀総長とでもいうべきであろうか。昌胤は、設楽原の戦いにおいては、内藤昌豊らとともに中央隊に属して、徳川本隊目ざしての攻撃に加わり奮戦したが、惜しくも敵の銃弾を浴びて倒れたのである。今信玄塚の近くにその墓碑が立っている。

そ もそも原家は、陣場奉行として戦時に重責を果たしたばかりでなく、平時においては優れた土木技術者として、特に治水工事において大きな業績を残している。このことについては、韮崎在住の佐藤八郎氏が手紙で次のように教えて下さっている。

 原隼人佑(佐は不可)。原家は、土木(普請)に特技をもつ家です。信玄堤の構築の際、普請奉行として苦心惨澹、年を費し完成した。次は、山梨県議会議事録 (明治19年)の一節。

 「諸君、注視せられよ。彼の釜無川の水滔々奔流し来り、 一潟千里の衝に当り、よく防禦の効を奏する信玄堤のあることを。そもそも此の堤防たる、3百余年以前の工事にして、原隼人佑昌胤が、信玄公の命を奉じて普請を奉行し、苦心惨澹16年余の歳月の後、成功せしものと聞く。封建殺伐の時代と、フ 日文明の時世とは、人心の向背自ら異にするとい雖えども、3百年以前の工事にして、今猶堅牢の壮観を呈し、民をしてその慶に頼らしむるの所以のもの、 顧るに、 当時兵革を急とする場合、 必すやごうごう乏を批難する者ありしならん。にも拘らず、困難の境には必すや快楽おの地あるを信し、断平その仕事を成し遂げたればこそ、今日人その功を称揚して措かざるなり」と。
斯くて採決の結果、議会の空気逆転し、反対者15名、賛成者19名を以て、釜無川河川改修案を可決せり。

 これは、知事提案の釜無川河川改修案が、初め反対19、賛成15の悲観的空気が漲ったとき、徳島県出身の、山梨県日日新聞社長にして、県会議員であった野口英夫の賛成演説の一節で、死せる原隼人佑が、野口英夫のロをかりて、生ける反対派議員を感動させたのです。

 この信玄堤は、暴流と呼ばれる御勅使川と急流釜無川との合流点で、現在の竜王町地内にある。この付近は、昔から甲州随一の水害の多い所であったが、改修工事を行なうすべもなく、ただ濁流の氾濫に任せていた。それを、信玄が甲斐の国主となるや治水工事に着手し、と将棋頭」「堀切」「霞堤」などの名を残しているように、まったく独創的な方法を駆使し、20年近い歳月をかけて大業を完成させた。

 そして、水難を解決した土地への入植開墾をすすめるために、棟別銭(家にかかる税金)の免除も行なっており、かくて不毛の地を数年ならずして野に化している。今も竜王信玄堤は、2km余にわたって往時の面影をとどめており、その上を覆ううっそうたる樹木が、4百年の歳月の重みを伝えている。

 原昌胤は設楽原に戦死して、その名と墓碑をこの地に残しているが、一方自分の国元においても、ゆるぎない治水業績の跡をとどめている。他国進攻と同時に領国経営にも腐心した信玄の、まことに信任厚い家臣であったことがよくわかる。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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