と 樋田にて 退路をたちし 設楽貞通

と 樋田にて 退路をたちし 設楽貞通

 戦いに明けくれた戦国の世にあって、古くからこの三河地方に住んでいた豪族たちは、今川・松平(後の徳川)・武田ら戦国諸大名のあらしのような動きにつれて、まるで風にそよぐ水辺の葦のように、右に左に揺れ動いていた。その中のひとりであった川路城主設楽貞通は、徳川方として設楽原の戦いに参加し、酒井忠次の鳶ヶ巣砦奇襲攻撃の際に、持別の任務を与えられるのであった。

決戦前日の5月20日夜、豊川の広瀬を渡った奇襲隊は、塩沢で二つに分かれた。一つは、忠次の率いる鳶ヶ巣攻撃の本隊であり、もうーつは、設楽貞通の率いる別働隊である。設楽隊は、5百の兵力と50挺の鉄砲をもって、舟着山が豊川左岸に迫る樋田の地に陣をかまえ、決戦の朝を迎えることとなった。急な斜面の山すそが川に落ち込むような自然の要害、ときどきはげしく降りかかって来る五月雨、そして川向こうはるかに望む徳川本陣のあかり、奇襲本隊と分かれた貞通の脳裏には、どのような思いが駈け巡ったことであろうか。 

 奇襲隊には、信長配下の鉄砲5百挺とともに軍監が付き添っている。なぜだろう。そういえば、忠次配下の武士は東三河の出身者がほとんどである。

 奇襲隊は、舟着山裏側の松山越えから敵の背後を突く計画であるが、戦略にたけた武田軍に通用するであろうか。かつて川中島で見せたように、正面からと見せかけて、武田の大部隊が豊川左岸を下って来はしないであろうか。その時これだけの兵力で、どれだけ持ちこたえられるであろうか。

 暗やみの中にたたずむ貞通の心の中には、次から次へと疑惑の雲が広がってゆくの であった。

 明くれば21日、決戦の日の朝まだき、はるか北方にときの声が挙がって、奇襲成功を知った設楽隊はにわかに色めき立った。もともとこの隊には、奇襲成功の場合は敗走して南下する敵を撃つためと、奇襲失敗の場合は酒井隊の退路を確保するための両面の任務が課せられていた。それというのも、土地の事情にくわしい設楽隊ならではの重要任務である。しかし、もはや敗走の敵を迎え撃つことだけを考えればよい。設楽隊は、地元勢の有利さを生かして、十分の働きを見せた。中でも夏目久四郎は、弓の名手として抜群の手がらを立て、戦いの後「コロミチ坂」において、家康から感状を与えられたという。 

 こうして、戦乱の真ただ中にあって郷土の豪族設楽貞通は、困難を克服して見事に任務を遂行したのである。そして、天正18年(1590)家康の関東移封に従い、武蔵国礼羽3千石の領主となって、この地を去ることとなった。しかしながら、慶長6年 (1601)貞通の二男貞信が分家して、ふたたびこの設楽原に戻って来た。夏目・門前、竹広・浅本・谷下・出沢六か村の領主となり、以後明治2年の廃藩置県に至るまで、竹広陣屋において政務を執っていた。その間、用水路の整備、豊川の舟運、社寺への寄進等、数多くの業績を挙げており、今も古文書や棟札でその様子を知ることができる。幕末の外交官として、日米修交条約交渉の中心的役割を果たした岩瀬忠震は、この設楽家から出て岩瀬家へ養子縁組で入った人である。現東京大学の前身である洋学研究所設立にも努力した見識の人であったが、44歳の若さで亡くなった。

 遠く鎌倉時代の昔、奧三河に源を発するといわれる設楽家は、設楽という地名と数々の遺業を残して、その墓は勝楽寺の境内にある。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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