ぬ ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川

ぬ ぬかるみに 馬もしりごむ 連吾川

 連吾川という川は不思議な川で、 上流は田園地帯のゆるやかな流れなのに、 下流の方が曲がり くねった断崖の間を行く急流となっている。 そして、 現在通っている国鉄飯田線が、ほぼ上下の境界にあたっている。その下流地域は、いわゆる中央構造線の圧砕石地帯にあたっているために谷間を形成して、 天然の要害となっていたから、 連合軍の馬防柵は、上流地域に設けられていたものと思う。

 ところで、現在の連吾川の上流は、二本の流れがほぼ平行して南進しており、東側のやや高い所を通る流れを「新川」と呼び、西側の低地を通る流れを「古川」と呼んでいる。この二つの流れは、下流の断崖地帯にさしかかる少し手前の所で合流しているが、明らかに川の様相が違っている。新川の方は川幅も広く、水の量も多くて流れも速く、川底は花崗岩の小さな砂で覆われていて、きれいな感じの割には川にすむ魚や岸辺の植物も数少ない。ところが古川の方は、川幅も狭く水の量も少なく、泥が 多くて流れも停滞しがちな割には、川の中ではふな・どしよう・はやが泳ぎ回り、岸辺には猫柳が列を作ってならび、葦や芹(あしせり)が群生している。寛文7年(1667)柳田前の元堰の所で、須長から流れて来る本流をせき止めて灌漑(かんがい)用の水路として開発した いわば人工の川が新川で、それ以前からあった天然の川が古川なのである。

 設楽原の戦い当時( 1575 )は、いうまでもなく新川のできる前であって、流れは本流の古川だけであった。それも、今の古川の様子から想像するに、かなり低湿な所を流れていたため、 川に沿う部分の多くは湿田であったと思う。 慶長9年 (1604) の検地帳をひもといて見ると、 元堰から連吾に至る連吾川沿い、 つまり合戦の主戦場にあたる地域に、 田6町2反10歩(約6.2ヘクタール)があったと記されている。 思うにこの田の多くは、泥深い沼田であって、しかも合戦当時は田植えを終って間もなくのころで、一面の田には、満々と水がたたえられていたはずである。


 さて、 合戦の日5月21日は陽暦に換算すると7月9 日で、 たまたまその年の梅雨明けにあたっていたといわれる。東側の丘陵の斜面を駈け下りて、連合軍陣地に突進して来た武田軍中央隊は、この連吾川沿いの田園地帯で、さぞかし困惑したことであろう。人も馬も沼田の泥に足をとられて、体を泥の中に埋める者、落馬する者などが出て、中には泥田を前にしてしりごむような馬も出たことと思う。そしてそれらは、西側の馬防柵の中で待機する連合軍銃手にとっては、かっこうの標的となったわけである。かくて、泥田はたちまち赤く血に染まって、武田軍は多くの犠牲を出したのであった。なお、武田軍左翼隊も、自陣の正面にあたる連吾川下流地域の断崖に阻まれて渡河できず、やや北方寄りに連合軍陣地を攻撃したため、中央隊と同じような惨状を呈するに至った。こうしてみると、武田軍にとっての抵抗は、鉄砲と馬防柵と連吾川下流の断崖のほかに、泥深い水田があったことになる。

 以来星霜4百年、連吾川もたびたびの豪雨で氾濫し、ところどころにかかっていた橋を押し流した。その中でも、現在の東郷中学校の東方にある橋は、旧信州往還のそれで、ほとんど毎年のように流されていたことがあるという。しかしながら一面から考えると、大水は雁峰山麓の花崗岩質の土砂を大量に沼田に運び入れて、徐々に土地改良を行なってくれたはずである。人為的な土地改良と相まって、往年の湿田も、今は排水のよい美田と変わっているという例が、少なからずあると思われる。それに新川ができて、川の流れも二分された。かつての草原も開墾されて、多くの田畑が作られた。4百年のゆるやかな時の流れの中において、設楽原も徐々に変貌を遂げた。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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