り 律儀にも 塩瀬が残す 五味の首塚

り 律儀にも 塩瀬が残す 五味の首塚

 須長、名高田の丸山から東へすすみ、東郷東小学校から宮脇方面へ通じる坂道をのぼっていくと、木立ちのおおいかぶさってきそうな峠に出る。峠手前のところで南側を見ると、今土取り場となっており赤土のけずりとられた小高い丘の上に戔いろはかるたの白い句標が立っている。近くにはたけの短い桧の古木が立ち、そのかたわらに五味貞氏の碑が東南を向いて建てられている。高さ1mの根府川石に「伝五味与惣兵衛貞氏之墓」と刻まれている。

 貞氏について、明治郡誌は次のようにのべている。

 貞氏ハ越前ノ浪人、戦役ニ際シ武田方浪人組ノー将トシテ中山附城ニアリ、五月二十一日不意ノ襲撃ニ遭フヤ、直チニ手勢ラマトメテ接戦シタルモ衆寡敵セズ討死ス
按ズルニ貞氏乗本村中山附城ニ討死シソノ墓所此処ニアルハ甚ダ怪ム可シ、一説ニョレバ中山附城ヨリ遁レテ本陣ニ来リ後、本陣危殆ニ陥リ勝頼将ニ遁レントスルノ際奮戦シテ討死シタリト、或ハ真乎(あるいしんか) 武田信実・三枝守友らと鳶ヶ巣山方面を守っていた貞氏は、酒井忠次らの奇襲攻撃で討死したといわれる。その首塚が、豊川をへだてた主戦場のこの地にあるのは、確かに不思議なことである。
この点について、天保7年(1836)の「参河志」には

武田臣五味与三兵衛貞氏墓柳田村
鳶巣山に於て討死、首庇嶄に埋む・塩瀬久兵衛の物語也

とある。 塩瀬久兵衛の物語がどのようなものかわからないが、 同じころ書かれた 「三河国名所図絵」 の中にも 首は・・・走持ち来り捨 とあり、 そう した言い伝えがあったものと思われる。 おそらく塩瀬の手によって八束穂藤谷のこの丘に運ばれたであろう貞氏の首は、今土が盛られその上を小石が覆っている。

 律義な武士の心が、昔ながらに残されている首塚の小石に生き続けている。五味の首塚のすぐ南西側は勝頼の戦地本陣赤ハゲ(才ノ神)である。西側におりれば連吾川沿いの激戦地であり、北東側におりれば宮脇原から浅谷・出沢へと続く武田方の退路である。諏訪法性の「甲(かぶと)」を捨てたといわれる甲 田もここから北東2百m程の所である。その意味で、この五味の首塚付近は武田方にとって、進出にしろ退却にしろ戦術上の分岐点であったといえる。

 鳶ケ巣からこの地へ、どのような事情があったにせよその移動の理由は、ところにあるように思われる。

 一方、赤ハゲから南へ信玄台地の背骨にそって旧道を歩くと5分程で信玄の町はずれにある庚申堂(こうしんどう)に出る。このあたりも、宮脇方面、下々(しもそう)方面、柳田方面、竹広・川路方面へと道の分かれるところである。あわただしい戦局の中で、武田方兵士の行き来のはげしかったところであろう。有海原から赤ハ ゲ本陣方面へと、律義な武士が通ったのも、あるいはこの道かも知れない。

 庚申堂の南へ少し入ると土屋昌次の碑がある。西は信玄塚へ、東は訣杯の地、清井田へと続く。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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