学ぼう
川中島の合戦以来、武田軍にとって信越国境方面は、上杉軍に備えて持に万全を期す必要があった。三河出兵を前にして勝頼は、北信の情勢にくわしく最も信頼できる重臣の高坂弾正忠昌宣を、海津城守備につけて1万の大軍を配した。かくて勝頼の本隊は、安心して三河長篠城を目ざして南進して行ったのである。
ところが三河進出は、設楽原での思いがけない大敗となり、名だたる部将の数々を失った勝頼は、屈辱の思いに耐えながら甲州へ落ちのびて行った。このことを狼煙のリレーによっていち早く知った高坂昌宣は、ただちに手勢8千騎をひきい、敗戦の翌 22日には南信の駒場において、主君勝頼を出迎えた. たどりついた将兵のよろいや着衣は破れ、手傷を負って血をにじませている者も数多くいて、哀れな姿であった。
昌宣は、こうした非常の時のために用意された武具や着衣をすでに持参しており、勝頼以下一兵士に至るまで新しい装束に改めさせ、信玄以来の青貝の槍もきらめかせて、軍団の威容を整えた。このようなゆかしい心づかいによって、勝頼主従は面目を保ちながら、故郷の山河と人々にまみえることができたのであった。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)