を 雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康

を 雄々しくも 立ち腹さばく 甘利信康

 甘利一族は、韮崎の甘利郷を領し甲斐源氏の流れをくむ家柄で、武田譜代の重臣である。領内ですぐれた甲斐駒や牛を増殖し、大麻やからむしから良質な白布を生産した。信康の父備前守虎泰は、武勇に優れていたばかりでなく、家老格として寺社奉行をも勤めた。兄の左衛門尉昌忠も武功をたて名将の誉が高かった。兄の死後信康は、百騎の侍大将として、小荷駄奉行をつとめた。


 設楽原の戦いでは、山県らと共に左翼隊に属し徳川軍に対した。勝楽寺前から竹広表へと奮戦して、中央隊とも力を合せて第三の柵をも破る勢いであったが、山県が討たれ原も討死するとじりじりと押され、天王山のふもとダンドウ屋敷付近に踏みとどまった。時すでに遅し総退却となった。目の前の連吾川沿いには、深い堀と長い柵が続いている。「この堀と柵がなかったら、家康の本陣も突きくずすことができたのに」と、立ったまま無念の切腹をしたという。

 武田二十四将伝には、鉄砲隊の隊長として奮戦し、弾丸が尽きたので、鉄砲を捨て抜刀して突撃し壮烈な戦死をとげたとある。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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