か 勘蔵は この地に死して 名を残す

か 勘蔵は この地に死して 名を残す

 川路勝楽寺の山門前に立つと、その南2百mばかりの田の中に「伝山本勘蔵信供之墓」の碑と、小さな一石五輪がまつられている。

 渥美の人・金子藷山(しょざん)の「戦場考」(る慶長12年)に、次のように書かれている。

 設楽郡富水荘川路郷下川路部落の東南平野に土饅頭の上に尺二三寸の石塔に山本勘介信供之墓と記し有之候、殊に塔婆迄新らしく建てられ候。

 勝頼の本陣付きの部将であったと思われる信供の隊は、本多・榊原など名だたる徳川軍の追撃をかわしつつ大海あたりまで退いてきたが、ついに壮烈な戦死をとげたのであろう。 明治郡誌には 「按(あん)ずるに・・・山本勘介晴幸の次男・・・24才の青躯(せいく)を以て奮闘勇戦遂に・・・大海有海間に討死す。其の墓如何にしてここにあるやは今明らかならず」とある。

 碑の立っている川路から豊川対岸の塩沢にかけては、信供とのゆかり深い土地であり、土地の人々は信供の墓をカンスケの墓と呼んで親しんでいる。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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