そ そこかしこ 顕彰碑たてし 牧野文斎

そ そこかしこ 顕彰碑たてし 牧野文斎

 初代牧野文斎翁は、明治元年(1868)八束穂の信玄に生まれて医業に志し、やがて当地有数の名医として世に知られるようになり、その経営する「信玄病院」は、門前市をなす程の隆盛を見せた。後年妻女に先立たれてより、郷土史や設楽原の戦いに興味を持ち、医業のかたわらその研究に心血を注いだ。

 大正4年8月、長篠古戦場顕彰会第1回総会が信玄「花菱座」で開かれた時、人々に推されて副会長となった。また日蓮宗に帰依し、昭和5年10月、信玄に祖師堂を建てて松原智信氏を主管に迎え、堂の玄関右側に、長篠戦役戦没者忠魂堂を設けてその霊を弔った。

 設楽原の戦いについては、現地を歩いてつぶさに調査し、数多くの戦史と照合して、不審な点については独自の見解を示した。このために多くの書物を集めたが、それを中心にして幅広い蔵書を持つ「牧野図書館」を設立した。なお、設楽原の主要戦跡や武将最期の地に後世の研究のため多くの顕彰碑を建てた。

 同氏の遺稿「戦国時代史論」「長篠戦史考」「設楽史要」等は、現在「設楽原をまもる会」において整理の仕事を進めている。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える