た たぐいなき 騎馬隊倒す 三千挺

た たぐいなき 騎馬隊倒す 三千挺

 天文12年(1543)、はじめて種子島に伝えられた火縄銃は、その後わずかな間に西方の諸国を中心に広まり、あちこちで使われはじめた。川中島の戦いでも、信玄は3百挺の鉄砲を用意していたといわれている。とはいっても、騎馬隊攻撃を主力とする武田軍にとってはその利用は限定され、どこまでも補助的なものでしかなかったと思われる。

 そうした時代に、はるかな戦場まで大量の鉄砲をつつみかくして運び、それを生かすための柵木や結束用の縄まで用意して来た信長の胸中には、何が秘められていたのであろうか。

 設楽原に着いた信長は、ただちに連吾川ぞいに馬防柵の構築を命じ、武田軍が近づくと、三段構えの鉄砲隊が交代で柵ごしに一斉射撃をあびせて相手方をひるませた。守りながら攻めという新しい戦術の登場であった。火縄銃の持つ弱点を、馬防柵と交代制の三段射撃で補う方法をとったのである。

 こうして、天下最強といわれた武田の騎馬軍団は、わずか半日の戦いで三千挺の鉄砲の前に敗れ去ったのである。信長の組織したこの足軽鉄砲隊の威力は、以後戦国、諸大名の戦術を大きく変えることになった。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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