よ 吉川より 豊田藤助 先にたち

よ 吉川より 豊田藤助 先にたち

 樋田で設楽貞通の別働隊と別れた鳶ヶ巣山奇襲隊は、 塩沢村の才神を経て吉川村へと入って行った。ここからは、村の郷士豊田藤助が先導をつとめて、松山越えの山道にさしかかって行った。

 この山道は、ロ士川村から市川村への通路ではあるが、けわしい峠と谷とのいくつかをつなぐ難路である。その上に、雨のそば降る闇夜である。行は前と後ろの連絡に注意して、足元に気をくばり、ぬれた武具や着衣の重みに耐えながら、黙々と歩み続けて行ったことであろう。

 やがて松山観音堂に着くと、ここでひと息入れて、ひときわけわしい峠への道をたどった。 峠からは市川村への本道からそれて、右手尾根伝いの間道を進んだ。 程なくゆるやかな傾きをもった大峰平の広場へ出た。ここから豊川左岸へかけての尾根のいくつかに、鳶ヶ巣・中山等の砦があって、戦略上の要地となっている。

 この大峰平において、大将酒井忠次はそれぞれの砦を攻略する手はずをきめ、念のため奇襲に失敗した場合の行動をも指示した。かくて、全将士がかぶとの緒をしめ直し、攻撃目標に向かって出発したのは午前5時のころと思われる。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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