れ 連吾より 浜田につづく 馬防柵

れ 連吾より 浜田につづく 馬防柵

 設楽原の戦いでは、新兵器鉄砲が人々の注目を集めた。しかし、鉄砲そのものの威力だけでなく、その特性を十分に生かすことができた、信長のすぐれたオ能にも目を向けることがたいせつだと思う。

 それは、鉄砲を三段に分けて使ったことと、馬防棚を設けて鉄砲の威力を何倍にも高めたことである。三段に分けることによって、鉄砲の効果を連続させることができ、馬防柵を設けることによって、敵の突進をはばむとともに、鉄砲を支えてねらいやすくすることができたのである。

 もしも、馬防柵を設けなくて鉄砲を使ったとしたら、勝敗の行方は果たしてどうなったであろうか。それを考える時、南の連吾より北の浜田に至る延々2km余の馬防柵の持つ意味は、限りなく大きいように思われてならない。周到な布石が、後になって局面を大きく変えた一つの例であろう。

 なお、馬防柵は連吾川のほかに大宮川ぞいにも、後詰め用のものを設けるという念の入れようであった。
 このたび「設楽原をまもる会」において、土屋昌次戦死の場所を選んで馬防柵を構築したが、絵図や文献を参考にして、なるべく忠実に再現したつもりである。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える