わ わが主君の 身代りとげし 笠井肥後

わ わが主君の 身代りとげし 笠井肥後

 昔から、負け戦で敗走しようとする大将の馬は、思うように進まぬものだという。勝頼も敗れて出沢(すざわ)の橋詰(今の花の木公園付近)まで来た時、川を前にして馬が動かなくなってしまった。

 しかし、後ろからは敵がどんどん追いすがって来て、一刻の猶予もできない。この時、旗本の中でも名だたる剛の者、笠井肥後守満秀は自分の馬を主君勝頼に勧めた。しかし、笠井の身を案じた勝頼はこれに乗ろうとしない。

 そこで笠井は無理やりに勝頼を自分の馬に乗せ、おもづらをとって追い立てた。そして押し寄せる敵を一身に引き受けて、ここを先途とはげしく戦った。そのうちに縁あって滝川一益勢に加わっていた出沢の郷士滝川源右衛門(げんえもん)助義は、ここぞとばかり名乗り出て、笠井とはげしくもみ合い、ついに両者相討ちとなった。

 ちなみに滝川家に残る系図には、助義はこの時に重傷を負い、翌日死去したとある。後日笠井の子は大谷刑部(ぎようぶ)吉継に仕えたが、ある日井伊直政が大谷家を訪れた時に「父の佳名(かめい)、今に朽ちず」とほめたたえた。関ヶ原の戦いで大谷吉継が討たれた後、その子は井伊直政をたずね、以後井伊家に仕えたといわれている。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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