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出沢と横山の境界は、名勝鵜の首、大渕、鮎滝、猿橋と呼ばれる深い峡谷である。峡谷には猿橋と呼ばれるところが多い。 この猿橋は昔鳳来寺山の利修仙人をたずねてきた勅使を、猿が互に手と足と体をつなぎ合って橋をつくってわたした話が残されている。この峡谷の一番上に発電所のダムがつくられ、これにつづく深いうねうねした峡谷を鵜の首と言い、つづいて真青な水をたたえた伝説の大渕がある。地質学では滝が後退してできたのだと言われている。
出沢からここへ通ずる道が藤生(ふじゅう)の道で、峡谷に接するあたりが橋詰で、ここにさんばあしの地名が残されている。出沢村の延宝の古地図に、橋詰にそって山ぎわに「猿橋の阿て」「下川まぶり」という珍しい地名が書き示されている。
【阿て一あて】について柳田国男の地名の研究に「アテという語は、木工や木材業者によく知られ、一本の材木の陽を受けぬ側、すなわち成長が悪くて木理がのびず、節くれだって加工の困難な部分だからきらわれ、ひいては物のよくないのをみなアテといい、醜女までをアテという隠語さえできている」とある。
まぶりは、「まもり一お守であり、鳥や獣を射るため猟師が身をかくすしかけ、まちとしてよいところという意であろう」とある。
この猿橋の橋詰―鵜の首の右岸は、猟師のまちとして獲物の多いところであり、歴史上では設楽原の戦いのとき、敗軍武田の追いつめられたところ-ー出沢の人々は誰言うとなく「猿橋の阿て・橋詰のあて」と呼ぶようになったのではなかろうか。
20日武田軍右翼隊は、甲州流の技術で架けられた鵜の首の棧橋を、第一軍馬場隊につづいて、真田兄弟・土屋・一条・穴山の各隊と続いて渡り、藤生から出沢本村・谷下・浅木をとおって須長境まで、雁峰山麓に押し出し、織田勢に対して布陣した。
翌21日設楽原の決戦には、馬場・真田信網・弟昌輝・土屋等今なお語り残される武勲を立てたが敗れ、敗軍の兵は橋詰に殺到し、全うすべき命を失う者が多かった。
主君のつかれた馬とわが馬とを乗りかえて、主君を守った笠井肥後守が討死したのがやはり鵜の首の右岸。名将馬場美濃守が、勝頼を見送り刀に手もかけず首をわたした緒巻桜の地も、出沢村古地図が「猿橋の阿て」と示すところである。
太田白雪の「続柳陰」に、「滝川村船渡シ、近キ比マデ古代ョリーツ橋ナリ。コノ橋ニテ凡二千人、水ニオポル」とある。 20日意気さかんに鵜の首を渡り、設楽原に押し出した、武田方の将兵の幾人が、21日再びこの鵜の首をわたることができたであろうか。この地に誰いうとなく「猿橋の阿て」という地名が生れ、そして今このように呼ぶ人がなくなった。鵜の首のせっ所(絶所)に、まつられている水神様だけは知っておられることだろう。ちなみに、鵜の首には、桜内幸雄の明治郡誌に「前ニ杭ノ跡アリ」とあるように、橋脚用にもってこいのポットホールがある。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)