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連吾川一帯を見おろす信玄台地の突き出た高台が天王山である。設楽原古戦場の中央に位置し、赤松林を渡る風が今もそのころのおもかげを残すこの地が、武田屈指の勇将内藤昌豊の陣あとであり、戦死の地である。決戦後まもなく書かれた藷山の「戦場考」にも次のように出ている。
設楽郡富永荘柳田郷天王山の西南に偏したる処に塚二有之候。即ち、下手のものは、内藤修理亮昌豊之墓”と野面石に記し(略)
内藤修理亮昌豊は、西上野 (群馬県)箕輪の城代であり、川中島の合戦以来甲軍の副将といわれた武田の重鎮であった。この戦いでは、武田方の中央隊として千五百の人数で天王山に陣し、柳田激戦地で六度戦ったといわれ、織田・徳川軍の第一・第二の柵を破りはげしく攻めたてた。本多忠勝家武功聞書(ききがき)には、内藤方の兵20人余が第三の柵をも乗り越して押しこんできたと書かれている。鉄砲隊の待ちうける堅固な三重の柵を、一部分ではあろうがいすれも突破したという内藤軍の勇猛さは、徳川方をふるえあがらせ記録にまでとどめさせたのである。家康の陣所に向ってひたすら突き進んだ昌豊の戦いぶりはあまりにも激しく、恐らくはこの戦いでの死を覚悟していたのであろうか。
しかし、次第に犠牲者は増大し、戦局の大勢はそれ以上の進撃を許さす、天王山の 地に退いて守ろうとした。今まで、赤ハゲ方面にひるがえっていた勝頼本隊の旗が 宮脇方面にのがれるのを見とどけた昌豊は、 数少なくなった残兵と共に再び撃って出た。勢いにのって押し寄せる敵をささえて戦い、体が矢竹でみののようになったといい伝えられている。改正三河後風土記には、昌豊最期の様子がくわしい。
内藤修理昌豊は、討死の時至れリと、残兵百余人をすぐって引返し、徳川家御本陣目がけ討ってかかる。本多平八郎忠勝蜻蛉切の槍をふるって戦えば、榊原康政、大須賀康高も、弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃立て決戦す。内藤修理は手勢皆討たれ、わか身も鎧に立つ矢は蓑の如く、さすか信玄が家随一(すいいち)の勇士といはれし内藤か、死物狂ひ獅子奮迅の怒をなせは、近寄りがたく見えける所に、流矢ーつ飛来リ、足にあたりて馬よりたまらず落ちけるが、又起き上り槍を取って突かんとするところを、朝比奈弥太郎泰勝(今川の家人)槍をつけて、その首を取る。
決戦前夜、設楽原進出の不利を勝頼に説いた昌豊にとって、この日の運命はすでに予期していたものであろう。敗色こい戦況の中て、せめて主君勝頼を本国に無事落ちのびさせ、再起を祈っての奮戦であったのであろう。勇ましくも悲しい52オの最期であった今、天王山に、巾3尺8寸、高さ3尺5寸の花崗岩の墓碑が建ち、そのかたわらに苔むした五輪一基がある。ここ天王山のすぐ北側に浅い谷をへだてて勝頼本陣あとの赤ハゲがあり、その向うには甲信に続く赤石の連山がのぞまれる。はるかに故郷をのぞむ赤土台地の上で、勇士の碑は4百年の時の移ろいを見守っている。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)