ね ねんごろに まつり絶やさぬ 勝楽寺

ね ねんごろに まつり絶やさぬ 勝楽寺

 富永夏目出身の可敬が残した「三河国名所図絵」に勝楽寺と信玄塚方面のさし絵があり、往年の立派な寺域の様子をうかがい知ることができる。曹洞宗大本山永平寺74世勅賜置指円性神師(佐藤泰舜師)が、若き日に修行し、住職をつとめたのはこの寺である。

◇開創のころ
 川路の勝楽寺は、遵慶律師によって6百年程前に開かれた。その後、室町末期の文明2年(1470)、川路領主設楽具庫頭は玄済和尚を招いて中興をはかった。この人が勝楽寺の初祖といわれる人であり、このころ寺の規模もほぼ現在の姿になった。以後設楽家の菩提寺となり、境内に墓がある。

 玄済和尚は矢部長昌院を、二祖の代に柳田の常林寺を開いた。更に、三祖の玄賀和尚は英明のほまれ高く、数多くの末寺をよく指導して、寺門の隆盛を招いた。記録によれば当時の末寺は、慈雲寺・慈眼寺・竜泉寺・大泉寺・勅養寺・常法寺・清眼寺・神宮寺・永観寺の外数寺に及んだとある。玄賀和尚はやがて弟子に法席をゆずり、山吉田の鈴木長門守に招かれて満光寺を開いた。

 また、和尚は野田城主菅沼定盈らと計り、遠州井伊谷三人衆と結んで家康進出の道を開くなど、名を成した善智識(高僧)であった。

 お寺付近は、勝楽寺前激戦地であり、戦いの間、住僧らは本尊を奉持して長楽村(新城市玖老勢)に避難していた。戦い終わった5月22日、信長・家康は当寺に寄り戦勝の祝杯をあげた。なお、この時に次の出来事があったと「長篠日記」は伝えている。「ソレヨリ川路村ノ松楽寺へ御立寄リナサレ、今ヨリ後ワ、コノ寺号ヲ勝楽寺ト改ムベキ由仰セラルニッキ、吉事ナリトテ御帰陣也」以来「勝楽寺」になったという。

 戦のあと、里にもどった村人たちは荒れた田畑を整え、死者を手厚く弔ったが、六月になると埋葬した信玄塚から蜂の大群が出て、村人や旅人をなやませた。相談を受けた玄賀和尚は、武田方戦死者の亡霊を鎮めるべく大施餓鬼会(だいせがきえ)を行い、夜は村人に命じて鎮魂の松明をたかせた。おかげで蜂はしずまり、人々は安心して往来できるようになったといわれている。

 これが今行われている「火おんどり」の始めである。それから毎夏、お盆の夜信玄塚では「火おんどり」の供養が村人の手で続けられている。勝楽寺においては、毎朝この慰霊の回向が行われており、ともどもに相伝えて4百余年、供養の灯をともし続けているのである。心やさしくも尊い私たち先人の心である。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える