ら 来援を 見届け金七郎 帰農する

ら 来援を 見届け金七郎 帰農する

 連合軍、 設楽原布陣を知った長篠城では、明日にも大合戦かと色めき立った。しかし城主貞昌は、別の思案をした。「先に強右衛門には、城中の食糧は後4・5日と告げさせてある。もはやその日数も尽きたと見た連合軍が、城兵危しとばかり戦いを急いではならない。当方にはまだ食糧も弾丸も余裕があるので、準備を周到にした上で戦いを始められるように。火急の場合は早鐘でお知らせする」との注進である。

 この注進の役を進んで受けた鈴木金七は、18日夜、敵の重囲を突破して八劔山の家康に言上(ごんじよう)した。家康も信長もともどもに、城主貞昌の行き届いた気配りに感心し、金七をねぎらって連合軍とともに行動するように命じた。かくて連合軍は、万全の態勢を整えてから、武田軍を迎え撃つことができたのである。

 金七は金七郎重政ともいい、川上村の生まれで、後、作手の田代に帰農している。慶長7年( 1602 )貞昌の四男松平忠明が、作手亀山1万5千石に封ぜられた折、田代に金七をたずね、2百石の禄を与えて往年の労をねぎらったという。また写真のように天正5年川上村白山社の「宮座の覚」には、田代村氏子金七郎とある。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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