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死者1万6千人という、 多くの犠牲者を出した設楽原の戦いも終って、避難場所ょり帰って来た村人の目にしたものは、累々と横たわるおびただしい死体であった。人々は、今の信玄塚の地に二つの大きな穴を堀り、その中に死体を埋めて塚を造り、それぞれに松の木を植え、心をこめて供養を行なった。そしていつのころからか、北の方を大塚の大松と呼び、南の方を小塚の小松と呼ぶようになったのである。
時移り、亭々とそびえる2本の老松は、信玄塚の象徴として人々に親しまれてきたが、惜しくも前後して枯れてしまった。大松の方は、昭和34年の伊勢湾台風以来樹勢の衰えが目立ち、5年後にはついに枯れてしまった。また小松の方は、もともと一対の夫婦松であったのが、昭和51年に雌松が枯れ、同56年には雄松が後を追うように枯れてしまった。今あるのはともに二代目で、「討死の霊に手向けん二代松幾星霜を命永かれ」と歌碑にある。
なおこの地には、山梨県の人々によって建てられた宝篋印(ほうきょういん)塔と供養碑、地元新城市の人々によって建てられた4百年祭供養塔などが、鎮魂の祈りをあらわしている。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)