ま 守りぬく 城主の 貞昌二十一

ま 守りぬく 城主の 貞昌二十一

 5月8日、武田軍1万5千の大部隊に囲まれた長篠城は、わすか 5百の兵力であったが、連日よく敵の攻撃を支えて戦った。しかし、日ごとに追いつめられてゆき、ついに14日には、本丸と二の丸を残すのみとなった。落城寸前のこの時、鳥居勝右衛門らの決死の活躍によって連合軍の救援を迎え、21日設楽原で武田軍の敗退を見るまで、しつに14日間。敵の猛攻に耐えて、ついに城を守り抜いたのである。

 時に城主貞昌21歳、この年若き青年武将は戦い終った22日、有海コロミチ坂において信長より戦功をたたえられ、賞与の杯と信長の「信」の一字を与えられて、以後は「信昌」と名乗るようになった。また家康からは、名刀般若長光を授けられている。さらに翌年には、領地3千貫( 1万5千石相当)が与えられて新城の城主となり、その上に家康の娘亀姫を妻とする光栄に浴したのである。

 武田・徳川二大勢力の間にあって、向背と運命の変転定めなき地方豪族が、れっきとした徳川譜代大名への仲間入りを決定づけた戦いであったが、その陰には、武田方の人質となった弟仙丸らの死の哀話が秘められている。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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