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山県三郎兵衛昌景は、武田四臣のひとりであって、合戦の際はつねに味方の陣頭に立ち、黒地に白ききょょの旗指物をなびかせて、戦場を馳け巡った猛将である。
設楽原の戦いでは左翼隊の指揮をとり、甲州軍特有の騎馬隊をひきいて、弾正山にある家康の本陣目がけ、十数回に及ぶ猛攻撃を仕かけた。しかし、ついにカ及ばす、全身蜂の巣になるまでの銃弾を浴びて倒れた。家来の志村又右衛門は、泣く泣く主人昌景の首をはね、胴体に「後々までの供養をお願い申す」と記した書状と小烏丸の短刀を添えて残し置き、自らは主人の首級をたずさえて甲州へ立ち去った。
やがて、戦いを避けて小屋久保(こやんくば)にひそんでいた村人たちも立ち帰り、それらを見つけた一日日昌景主従を哀れに思った人々は、庄屋峰田家の山に昌景の遺体をねんごろに葬り、そのかたわらに木を植えて、「胴切りの松」と呼んでいた。また峰田家では、自分たち先祖同様に昌景の墓を4百余年守り続けて、今日に至っている。「胴切りの松」とはいうものの現在残っているのは桧の老樹である。なお小烏丸は太平洋戦争直後に供出させられて、由緒ある名刀をいま目にすることはできない。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)