学ぼう
連吾川沿いの馬防柵の構築など次々と織田・徳川軍の動向を伝える知らせの中で、勝頼は19日設楽原進出を決定した。そして、翌20日には、寒狭川を渡り有海原から、信玄台地一帯に陣をしいた。このあたりは雁峰山系から幾条もの丘陵が南にはりだした形で、入りくんだ小さな谷と山は、陣をしく格好な場所であった。
はじめ、武田軍は清井田坂に本陣をおいたが(「三州長篠軍記」など)、やがて、連吾川を見おろすー柳田の赤ハゲ(才の神ともいう「続柳陰」)にすすんだ。現在の東郷東小学校西の丘陵頂上付近である。
ここからは、正面に家康の本陣弾正山、柳田前激戦地、北に丸山とやがて戦場となるであろう連吾川の流れが手にとるように見えた。裏手には下々(しもそう)部落の四反田川から清井田、有海原が見下ろせ、その向うにははるか信州の山なみが見える。信玄台地のもっともくびれたところである。
昭和10年代までは文字通りザバ土(花崗岩質)の赤ハゲとなっており、子どもたちの遊び場としてにぎやかであった。今は植え込みの杉桧がすっかり成長して、連吾川方面の見通しはよくないが、梢をわたる風の音は往時のままである。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)