学ぼう
鳶ヶ巣山の戦闘に参加した乗本の阿部四郎兵衛が、天正6年に書いた「長篠日記」、戦いに敗れた大将勝頼のあわれさが、およそ次のようにのべられている。
勝頼公について前線から退いたのは、初鹿野伝右衛門と土屋惣蔵(昌次の弟)の二人だけであった。 さて又、信玄公より譲られた、諏訪法性の御甲は、暑さと疲れで伝右衛門はこれを捨てた。そこへ小山田弥助(信茂の弟)が来て、これを見つけ、拾いあげて持ち帰った。
実際には、勝頼主従が甲を捨てたとは考えにくい。土地の子どもたちは、倒れた武田方将兵の武具がこのあたりで見つかったので、甲田(小字名)の名がついたと、昔語りに聞き伝えている。
赤ハゲ本陣から引きあげて、信州へ向う道にそって四反田川にかけられた甲田橋がある。今、武田軍の退路にそって出沢・浅谷方面から学校に通う子どもたちにとって、それは学校間近しの道標であるが、当時の武田軍にとっては決戦場からの出口であったのだろう。
四反田川を少しさか上ると、三子山に真田兄弟の墓があり、さらに上ると浅木の田の中には、樋口下総守兼周の五輪塔がある。
武田の悲運を秘めた四反田川の流れである。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)