ふ ふしぎにも 蜂の大群 姿けす

ふ ふしぎにも 蜂の大群 姿けす

 信州往還は、東海道の御油の宿より出て北東へ進み、本宮山のふもとを回って設楽原を通り抜け、信玄塚に通じていた。この街道は、さらに北へ進んで信州善行寺に至る。また、信玄塚より分かれ出るもう一つの道があって、有海原を横切る秋葉街道となっていた。だから昔の信玄塚は、交通の要衝であったと考えられる。設楽原の戦いの後、信長はこの信玄塚の地で、武田軍諸将の首実検を行っている。一方また村人たちは、この地に多くの戦死者の遺体を葬って、二つの大きな塚を造った。「信玄塚」という名前は、信長がつけたものと言われている。

 ところが、戦いの直後の6月、この信玄塚に蜂の大群が出て、信州往還を通行する人馬を悩ませたことがある。人々は、武田軍の死者の霊が蜂となって現れたと考え、勝楽寺三祖玄賀和尚の意をくんで大施餓鬼を営み、夜にはたいまつをたいて供養を行なった。すると、蜂の大群はどこへ行ったのか、姿を消してしまったという。

 今も、毎年8月15日の夜行なわれる「火おんどり」は、こうした武田軍の死者の供養がもととなって始められた年中行事と言い伝えられている。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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