学ぼう
5月20日、極楽寺ての連合軍軍議の折、家康の部将酒井忠次は、豊川を渡って鳶ヶ巣山へ登り、武田軍の背後を突くことを進言した。しかし信長は、「そんな小細工は、大軍の用いるところでない」といって、きびしく退けた。ところが、軍議か終って諸将が帰陣した後、そっと忠次を呼び寄せて、「先ほどの進言殊勝である。計画の漏れることを恐れて、あのようにいったまでのこと。直ちに実行に移せ」と命じて、配下の鉄砲隊5百をあすけるとともに、忠次の請いにより軍監も加えた。
勇み立った忠次は、約3千の兵を従えて出発し、広瀬で豊川を渡って塩沢に上がり、樋田に特命を与えた一隊を残して吉川へ出た。そこの郷士豊田藤助の道案内で松山越えの難路にいどみ、夜の暗やみをおかして目的地へ進んで行った。やがて、5月21日の夜明けとともに鳶ヶ巣山の敵陣を急襲して火を放ち、武田軍を混乱に落とし入れて、設楽原決戦当日の花々しい幕あけとしたのである。
なお武田軍においても、作手を回って連合軍後詰めの牛久保城を夜襲する計画があったが、事前に漏れて、長山の宝川で城兵に迎撃されて失敗したという。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)