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戦いに敗れたのは勝頼であるが、合戦後4百年の今なおこの地に残るのは父信玄の名である。
動乱にあけくれた戦国の世にひときわその名の高かった名将信玄は、その死後いつまでも諸国の人々に恐れられていた。設楽原の戦いで武田軍を敗走させた信長は、この機会をとらえ、、、信玄倒れるの知らせが西国へ伝わるであろうことを計算して、討死した武田軍のしかばねを集めて塚をつくり、信玄塚と名つけたといわれる。信玄の地名が生まれたのもそれからまもなくのことである。
白雪の「続柳陰」には、「信玄塚町竹広・柳田両村ノ出村也。四十年ハカリ此方信玄ト略シテ云。又近キ比ハ新間ト書替ル」とある。更にそのころ、柳田村と下々村から分かれて新間下柳町ができたという記録がある。現在の信玄の町である。その後の「三河名所図絵」には信間村とある。
将軍家光にはじまった鳳来寺山東照宮の造営のために、街道筋の道路の改修がおこなわれて、新しい信玄の町ができて、明治の半ばまで伊那街道ぞいの小宿場町としての役目をはたしていた。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)