み 三子山に 真田兄弟の 墓ならぶ

み 三子山に 真田兄弟の 墓ならぶ

 大宮前の丸山一帯では、はげしい戦闘がくりひろげられた。丸山砦を守る佐久間隊目がけて、 武田軍先陣の馬場隊は猛攻撃を加え、ついにそこを押さえたけれども、多くの戦死者を出した。 真田兄弟の部隊は、馬場隊に続く第二陣・第三陣となり、飛びかう敵の銃弾をかいくぐって突進し、 第一柵を破り、さらに第二柵に取りかかる勢いであった。しかし、兄信綱は銃弾を受けて戦死し、弟昌輝も傷を負った。漸く戦いは武田軍の不利となってゆき、勝頼の本隊もじりじりと後退し、やがては「大」の文字の旗指物(はたさしもの)も、はるかに遠のいて行った。

 それを見送った昌輝は、兄の死所をさがしたけれども、そこはすでに敵軍の充満する真ただ中。やむなく本隊の退却を援護するため群がる敵を引き寄せて戦いながら退き、壮烈な死を遂げた。
宮脇の三子山には、両雄の名を並び刻んだ墓が立っている。なお大阪の陣で有名な幸村らとの関係は次の通りである。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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