学ぼう
想像を越えたおびただしい戦死者の姿は、戦いのむごたらしさとともに人の命のはかなさを、無言のうちに人々に語りかけるのであった。戦いの直後、村人による戦場処理はもとよりのこと、以後何回となく戦没者供養かそこかしこで行われたものと思う。特に、戦いの翌6月に行われた蜂退治の大施餓鬼と松明たき、7月の家康主催の法要、その後行われた設楽家の供養塔建立と家臣丹沢氏の供養等、主なものだけでもかなりの数になる。
近年においては、合戦350年祭後の昭和5年10月、八束穂信玄病院初代院長牧野文斎翁は、日蓮宗に入信して信玄祖師堂を建て、その中に東三河数百名の会員の寄進になる戦没者の位牌を忠魂堂に安置した。その開堂入魂式当日は、身延山81世杉田日布聖人を招いたため、沿道は高僧を迎える人で埋まり、幟(のぼり)や屋台店も並んでにぎわった。そして、祖師堂主管に松原智信師を招き、毎月21日には例月祭、毎年5月21日には例年祭をねんごろに営んだ。
しかし、この祖師堂が昭和32年に廃止されるにともない、戦没者の位牌は富士市の本照寺にまつられている。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)