学ぼう
高坂源五郎昌澄は、その父高坂弾正昌宣の残した大きな業績を思うと、大した手がらもたてられないままに終った、悲運の子といえるようである。
父昌宣は武田家の重臣で、信州海津城をりっぱに守って、南進する上杉謙信にも一目を置かせ、長篠攻めに際しては、留守部隊の指揮官として国元にとどまり、さらに戦後は、数少ない宿将のひとりとして主君勝頼をよく助けた。
一方、子昌澄の短い一生についてはいろいろに伝えられているが、「甲斐国志」には、次のように簡潔にしるされている。「弾正ノ長男ナリ。長篠ノ攻メ手二アリ。後ロニ軍ヲ分チ、城兵ヲ圧スルノ備エアリ。源五郎ソノ部ノ将トシテココニ戦死ス」つまり彼は、設楽原の戦いには出陣せず、長篠城監視の指揮を執っているうちに討たれたのだ。武名いまだ揚がらぬ若年にして、あわれ戦場の露と消えたのである。
その昌澄の墓は小川路にあって、岩広村(富沢)の庄屋河合七左衛門の日記によると、享保20年(1735)8月27日に建てた、とある。長篠城をはるかに離れ敵陣地跡の奥深くに墓を定めたのも、きっとそれなりの事情があってのことであろう。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)