む 村人は いくさをさけて 小屋久保

む 村人は いくさをさけて 小屋久保

 5月17日、織田、徳川の大軍が続々と野田方面に到着し、野営をはじめたというので、設楽原一帯はにわかにあわただしくなった。

 庄屋様から、老人、女、こどもは、それぞれ五人組でまとまって避難せよと、お達しがあった。竹広から東、山つき部落の人々の行先は、小屋久保である。

 この小屋久保は、大正末期までは、布里方面の人々が新城へ往来した旧道ぞいの七久保の近くで、今の雁峰林道に沿っている。草刈りや薪取りに村人たちがよく出かけたところで、五人組ずつの小集団の仮住居にはよいところだ。しかも四方へ逃れる道はあり、きれいな流れもある。村里からは見えないが、近くの草鹿山(浅間山、千人塚ともいう)へ上がれば、設楽原が一望できる。

 仮住居といっても、つゆどきである。第一に雨具に食料、ほかに日用品と幼児までを馬の背に乗せて移動しただろう。仏様を忘れたというので、あわてて駆け戻ったおばあさんもあったという。そんな様子を想像することができる。

 今もこの地から、徳利や茶碗の破片が見つかることがある。

 小屋久保の近くの「鏡岩」は、草刈鎌(くさかりがま)の砥石(といし)のくせをすり直す砥石であった。ふもとの村々の人がみんなから、砥石の砥石はぴかぴかで鏡のようであった。  

七久保の太田さんのおじいさんが、ある晩鏡岩をみると真赤である。驚いて鏡岩に駈けあがってみると、遠い三ヶ日の大火事の反射であったという。

 又荒原の村に押入った泥棒が捕まって殺される時、俺のような悪者は後々弔ってくれる人もないだろう。せめて石なりと供えてくれたら足を軽くしてあげようと言った。そこで、 ここを通る人は誰もが小石を供えるので、石の山ができた「ろくだいさま」や、山を行く人の目標になっている大きな「鳩岩」も近くにある。少し離れて屋敷跡や寺跡もある。

 21日の夕方、草鹿山にのぼってうちの方を見ると、いくさは終ったようだ。いそいで片付け、馬の背に子どもまでのせて、帰途につく村人たちの姿が今もなお想像することができる。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

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