学ぼう
武田軍を討つために、岐阜を進発する信長の胸中には、すでに周密な作戦が用意されていた。それは、当時天下無敵を誇っていた武田軍の騎馬隊を制圧するための秘策であることは、いうまでもないことである。それも、意気盛んに敵陣に突撃することではなくて、この際は、徹底した「待ちの戦法」に出ることにした。つまり、味方の陣地の前に馬防柵を設けて、突撃して来る敵の騎馬隊をそこに釘づけにし、3千挺(ちょう)の鉄砲を組織的に使って、断え間なく銃弾を浴びせかけるという、当時としては奇想天外な作戦である。
そのために、軍兵一人につき丸太一本とそれを結ぶ繩を持たせて、岐阜を出発させている。これは、多量の柵木が現地でただちにととのえられないための用意もあったたろうが、おびただしい鉄砲のカムフラージュに、より大きな意味があったと思われる。柵木は現地に着くと馬防柵に構築され、再び鉄砲との組み合せによって強大なカを発揮して、岐阜より延々と運び入れて来た目的を十分に果たした。
今、設楽原の一角に、当時の馬防柵の一部が人々の尽力によって再現されている。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)