学ぼう
5月18日より3日間にわたって、連吾川沿いと大宮川沿いに馬防柵を造り、堀を掘ってがっちり陣地を構えた信長は、20日諸将を上平井極楽寺山に集めて軍議を開き、念入りな作戦をたてた後、鳶ケ巣山奇襲隊を先発させた。やがて武田軍は、信長や家康の期待どおり豊川を渡って西進し、連吾川対岸の台地に布陣した。これを知るや信長は、その夜はやる心をおさえて雨の中、本陣を茶臼山へ前進させた。
間もなく雨もあがり、松の梢を渡って来るすがすがしい風の中を、一声三声きつねの鳴き声が聞こえる。その情景をとらえて、信長は次のように歌を詠んだ。
きつねなく声もうれしくきこゆなり 松風清き茶日山がね
「うれしく」に、信長のひそかな自信がのぞいているようである。そして「茶日山かね」は、「茶臼山の峰(項上)」の意であろうか。この歌は、明治35年(1902) 旧石座村牛倉の有志が歌碑にし、書は国文学者小中村義象の手に成っている。 なお村上忠順の「三河雑抄」に、信長の長男信忠も夏目野辺神社の陣中で、「代々をへん松風さゆる宮居哉」の句を詠んだとある。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)