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清井田は、太田白雪の「続柳陰」に「清キ井泉アリテ村ノ田ニカカル故ニ村名ニス」とあるように きれいな地下水に恵まれている。かつてはこの水で酒が作られていたし、今も清井田のお茶はうまいという。清井田は清泉の里である。
牧野文斎翁は、「設楽史要」の『武田老臣の水盃』の項で、次のように述べている。
武田老臣の水盃は、世に名高い話なれども、その実は水盃などといふ哀話にてはなかりしが如し。「落穂集」に、次のやうにある。
「明日ノ一戦ノ場所ヲモ、見置キ申スベキャトコレアリ、侍大将ドモハ各々申合セ場所見分終リテ後、馬場美濃守信房、山県三郎兵衛昌景、内藤修理昌豊、土屋右衛門尉昌次此四人ノ家老共ハ、清井田ト申ス所ニ至リ清水湧キ出デ流レル池ノホトリニテ 馬ヨリ下リ一所ニ集リ床几(しようぎ)ニ腰ラカケ、休ミオリケルガ、中ニモ馬場美濃守申サレタルハ、明日ノ一戦互ニ死生ノ程ハカリガタシ。我等儀ハ、信玄公御代ヨリ位置所ニ相勤メ、多年入魂申シ来リ候所ニ相寄リ集リ参会申ストアルモ、是限リト相成候ヤモハカリガタク候へバ、酒肴トテハコレナク候間、アレナル清水ラ汲ミョセテ、今生ノ名残ノ盃ラ取カワシテハ如何ト有ケレバ、三人共ニ一段ト然ル可シトノ返答ノ所、丐場美濃守、家来ニ申付ケ馬柄杓ラ以テ清水ヲ汲ミ寄セ、腰ニハサミタル水呑ヲモッテ、「我等ココロミラ致スベキ』トテー杯引受ケ、ソレヨリ残ル三人モ欲ム」
この説によれば、あながち訣別の宴とは見られない。すなわち馬場・山県・内藤等幹部は、勝頼に供奉し来りて、清井田に本営定まれる後、明日の戦場を視察するの要ありとて、各々其の陣所に臨みて彼我(ひが)の形勢を視察し、再び本営に還り来りて所見を復申し、向ふ所の手筈を定め其の帰途、五月陽暦七月のこと、脚下に滾々たる清水の湧出つるを見て渇を医せしが、明日各々討死しければ、訣別の盃なりしかと世上にうたはれたのであらう。しかれば、その清水こそ清井田、清水寺(せいすいし)前のものに相違なかるべし。
しかし、大正3年( 1914 )に顕彰会は、同じ清井田でも清水ヶ入に「武田諸将訣盃ノ跡」の石標を建てている。
大正13年発行の熊谷丘山氏の「新城の今昔」には、「『長篠ニ於テ勝頼諸将ノ諌(かん)ラ用 イズ明日一戦ト極(きわ)ム故、陣地ノ場所ヲ見置キ申スペシトテ・・・ ・・・』と落穂集の説をあげて、この地は清井田の清水ケ入という所であると言伝えて、今も尚(なお)清水がコンコ ンと沸(わき)出ていて実にその昔をしのばしめるのである」と述べている。
また今から数年前に、清井田の牧野一(しういち)氏は、清水ヶ入の清水を利用して池を造ろうと、田を掘り上げていたところ、ほとんど完全な形の山茶碗(やまぢやわん)を発見し大事に保存している。4百年前の四将訣盃を連想するのは、むしろ当然のことといえよう。
ところで、設楽原に軍を進めた勝頼の本陣は、清井田の元永観寺であった。宿将たちは、陣地検分の報告かたがた合戦の打合せを終って、めいめいの陣へ帰る道すがら ふと泉のほとりに馬をとめて、冷たい清水にのどをうるおしたものと思われる。明日 の決戦を前にして勇奮する心をおさえ、淡々と語り合う四人の顔には、さわやかな微笑すら浮かんでいたかも知れない。まさに 一幅の名画といえよう。ただ、原隼人佑昌胤の姿が見えないのが、いささかさびしい思いがする。
(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)