ほ 掘りあてし 弾丸は 鉄玉鉛玉

ほ 掘りあてし 弾丸は 鉄玉鉛玉

 一つ茶色の鉄玉、 もう一つの方は青みを帯びた少し小さめの白い鉛玉である。 昨夜来の雨に洗い流された土の中から今、 顔を出したのである。 4百年間土の中で眠り続けていたこの二つの玉である。ふたたび日の目を見ることができたと同時に、設楽原の戦いが、手に取る近さによみがえる思いであった所、竹広字連吾276 の1、飯田線北側の畑の中、時は、昭和37年の暑い夏の日中、発見者は、竹広在住の本田寿儀氏であった。本田氏はもともと郷土の歴史や設楽原の戦いに関心が深く、その日もこの地で行われた合戦の様子を頭にえがきながら耕作し、あわよくば当時の遺品が出て来ないものかと、かすかな期待を持っていたという。それが、ついに現実となったのである。こうして発見された連合軍使用の弾丸は、貴重な資料として、現在長篠城趾史跡保存館に展示されている。

 この銃弾の発見された地点から南の連吾川下流地域は、かなりけわしい断崖が続いていて、騎馬隊の渡河はきわめてむずかしいと考えられ、従って馬防柵の必要も少ない地域といえよう。これに対して、発見場所より北方には連吾川沿いに三重の馬防柵が連なり、その柵をはさんでのはげしい攻防戦が数多く伝えられている。たとえば、武田軍中央を受け持つ内藤隊は数次にわたる突撃の末、ついに第二柵を乗り越えて20人余が殺到し、それを相手にして本多忠勝が奮闘し、さらにその北方では、武田軍右翼隊の土屋昌次・真田兄弟らの柵をめぐる死闘ぶりが、今もなお人々の語り草となっている。こうしてみると、本田氏の発見した場所は、馬防柵の南端に近い場所であって、主戦場を南にはずれた所といってよいであろう。

 発見弾丸は二つであるが、設楽原で連合軍の使用した鉄砲は3千挺にのぼり、かりに一挺につき30発の弾丸を使用したとしても、合計では10万発近くの量となる。おそらく使った黒色火薬の量にしても、トンを単位に数える程ではなかったろうか。さらに鉄砲の種類にしてもさまざまであって、使用した弾丸の大きさも、6匁玉・8匁玉・ 10匁玉等数多かったことと思われる。

 ともかく、こうして多種多量の銃弾が、殊に連吾川上流の主戦場地域にはばらまかれたはすなのに、そこでの発見ではなくて、いわば激戦地の周辺であったわけだ。いったい、数多くの銃弾はどうなったことであろう。4百年の間には、地形や土地利用の状況も変わって、なお土中深く埋没しているのであろうか。それとも、地下の条件こんせきによって腐蝕が進み、もはや痕跡をとどめないのであろうか。それにしても本田氏の発見は、好運というよりもまさに執念の成果というべきかも知れない。

 史家の説くところによれば、当時の火繩銃の有効射程距離は約200m、命中可能距離は約100m、さらに50m程度ならば、いかに厚い鉄の具足でも貫き通したという。だから、馬防柵近くまで敵を引き寄せ、耳をつんざくような轟音とともに撃ち出す鉄砲は、実質的な殺傷とともに、人馬に対し畏怖感を与えるのに十分な効果があったものと思う。かしながら一面には、銃の精度や扱いの不備によっては、不発や暴発もあったと考えられ、それによる思いがけない事故も味方の中に起こったことであろう。それに、鉄砲・具足や携帯用の兵糧の外に、容器に入れた火薬や銃弾、火繩の予備品や火打ち道具等、考えてみれば一銃卒の装備は数10kgに及ぶ重量で、その戦闘操作は確実・容易とばかりは言えなかったと思われる。

 かくて発見された2発の銃弾は、多くの想像と課題を人々に与えるのであった。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える