せ 先陣の 大久保兄弟 うって出る

せ 先陣の 大久保兄弟 うって出る

 連吾川の下流地域は、両岸が切り立った崖のようになっていて、ちょっとした谷間を形作り、その間を蛇行するように川が流れている。そして、その左岸に上がるとなだらかな傾きを持つ田園地帯が広がって、設楽原の南端を占めている。 ここが、有名な勝楽寺前激戦の舞台なのである。5月21日午前6時ごろ、の勝楽寺前において合戦の火ぶたが切られた。家康の部将大久保忠世・忠佐兄弟がいち早く武田軍に攻撃を仕かけて、設楽原決戦の開幕としたのであった。もともと大久保兄弟は小川路に布陣していたけれども、織田軍に遅れをとってはならじと、機先を制して馬防柵の外に撃って出て、連吾川を渡り、武田軍の左翼を守る山県昌景の部隊に突撃していったのである。

 この戦いにおいて示した、大久保兄弟の戦のかけ引きと指揮ぶりは見事なもので、さすがの山県隊も、最後には柵の中に誘い込まれて、銃弾の標的となってしまった。この様子をはるか本陣より観戦していた信長は、「徳川殿は、よい家来を持って幸せ者よ」と、思わず感嘆の声をもらしたという。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える