ひ 日は悲し 一五七五ぞと 武田七九

ひ 日は悲し 一五七五ぞと 武田七九

 天正3年(1575)の5月21日は、設楽原決戦の日であるが、これは陰暦による日付であって、現代風の陽暦に換算すると7月9日相当する。5月21日というと、かっこうの鳴き声が新緑の山々にこだまする初夏を思うけれども、実は、くまぜみのかしましく鳴きだす盛夏の入り口の7月9日だというわけである。事実、設楽原決戦当日は、梅雨明けの晴天であったと当時の記録に見えている。

 この日、馬防柵の内側に待機していた織田・徳川の連合軍にとっては、まことに幸先のよい晴天であって、自慢の火縄銃も心おきなくつかえるというものである。これが万一、梅雨の明けきれぬ雨天の日であったとしたら、3千挺の鉄砲も、ついにその威力を発揮できなかったことであろう。そして戦いのなりゆきも、かなり変わったものになったことと思われる。

 これに対して、まぶしいくらいの夏の日差しに刀槍をきらめかせ、馬蹄の響きをとどろかせながら突進して来た武田軍は、敵を目前にして右往左往と戸惑ってしまったのである。がっちり組まれた馬防柵に行く手をはばまれ、絶え間なく撃ち出される銃弾の標的となって、次々に倒されていったのである。それにもめげず、味方の死かばねを乗り越えて繰り返し行なった突撃も、ついに連合軍の柵を破ることができす、いたずらに損害のみを大きくしていった。

 こうしたなりゆきは、連合軍にとっては期待以上の勝ち戦であろうが、武田軍にとっては、おそらく予想外の負け戦といえるであろう。一部の人は別として、総大将勝頼以下大部分の人々は、「信玄公以来の無敵甲州軍の勝利」を信じて戦ったはずである。それなのに、これはいったいどうしたことであろう。連合軍の一斉射撃が行われるたびに、多くの人馬が倒されてゆく。重なり合って横たわるおびただしい死かばね。初めて経験する惨たんたる敗北。名だたる部将の戦死の知らせが伝わるたびに、武田軍の戦意は目に見えて衰えていった。

 「もはや、武田軍にとっての一期と覚悟を決める時かも知れない。新羅三郎義光公以来の甲斐源氏の名門も、あるいはこの負け戦がもとで絶えてしまうかも知れない」と、沈痛な思いをかみしめながら危機感を抱いた人は少なくなかったであろう。そういう人々にとっての共通の思いは、「せめて御大将勝頼公と、『大』の旗印だけは、無事国元へ帰って再起を図っていただきますように」ということであった。そして、その共通の思いを実現するために、また多くの人々の血が流されていった。

 傷ついた友を背負い、自らも負った手傷の血をぬぐい、かさにかかって襲撃して来る土民たちを警戒しながら甲州への山道をたどる武田軍。かつて、風林火山の旗をなびかせ、長篠城目指して騎馬を連ねて進んだ軍団の、さっそうたる面影は今いずこ。誰もが、屈辱の思いをいやという程かみしめているのである。わけても総大将勝頼の胸中には、今は亡き部将たちのすすめた「勇気ある撤退」を取り上げなかったことへの悔恨が、黒く重たくわだかまっているのであった。

 かつて信玄は、野田城攻めの戦いにおいて病にかかり、それがもとで、旅路の途中で果てている。今またその子勝頼は、武田の命運を危うくするような完敗を、この設楽原で痛烈に味わったのである。 こうしてみると、この奥三河の里は、武田軍にとっては悲しき因縁の地というべきかも知れない。陽暦に換算した7月9日を当てた語呂合せの「武田七九(なく)」も、また武田家没落に通じる「一五七五(いちごない)」も、妙に生き生きとした意味を持って来て、単なる偶然ではないような気がする。

(かるたでつづる設楽原古戦場 設楽原をまもる会著 より)

この記事を友達に教える